[JP] d042:東京下町 陸華町 のコンセプトと建物について


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東京下町 陸華町(東京下町 六花町)のコンセプトと建物について

2009年の「東京下町の路面電車モジュール 其の1」、2014年の「東京下町の路面電車モジュール 其の2」以来、運河沿いの町家の街並を制作していませんでしたが、約10年ぶりに小型レイアウトで制作した前作「東京下町 伍福屋町」(2024年)に続く作品です。 20世紀初めころ(明治末期〜大正〜昭和初期 ころ)の、東京の架空の下町の繁華街を場面設定としています。
 (Nゲージ、S=1:150 スケール)
タイトルの「陸」は漢数字「六(6)」の旧字体です。「六花」を旧字体で表すと「陸華」となります。 「六花」は、雪の結晶の多くが六角形をしていることから、雪や雪の結晶の異称、冬の季語で、「むつのはな」とも読むのだそうです。
 
20世紀初め頃(明治末期〜大正〜昭和初期 頃)の東京の架空の下町の繁華街を場面設定としています。 昭和の高度成長期以前(自動車の本格的普及前)は、物流の中心は「船」によるものでした。 江戸や大阪などの商業が盛んな都市部では川や水路・運河が多く整備されていて、人や物を運んでいました。 この作品では、かつてあったかもしれない水辺の風景を想定しています。
 
「町家建築」は「武家屋敷」「民家」などと違い、「門」や「前庭」を持たず、建物が直接道路に面している点が大きな特徴です。 節税対策として間口を狭くして奥行きを長くする「うなぎの寝床」と言われる細長い敷地形状も特徴で、道路に面する表(おもて)に「みせ」(店、見世)(※これを「表店(おもてだな)」ということもある)、敷地の奥の方には「住居」や「蔵」を配置する形が普通ですが、このレイアウトではスペースの関係上、「みせ」部分のみの設置です。
 
建物(ストラクチャー)は全て作者の自作による型紙を使用しています。 以前の作品(東京下町の路面電車モジュール 其の1・其の2)でも使用した型紙のほか、今回新しく起こした型紙もあります。 お店の看板は、ネット上の明治〜大正時代頃の画像資料をもとに作っています。

  • 建物・蒸気外輪船などは全てオリジナル設計によるフルスクラッチです。
    (一部にレーザーカッター使用、データはCADによるオリジナル)
  • 屋根瓦・街灯・電柱・など、一部にメーカ製素材を使用。

2025年(令和7年)5月22日掲載



01:てんぷら屋

01:
江戸から明治に時代が変わると(明治元年=1868年)、人が多く集まる繁華街には3階建ての町家建築が誕生したようです。 明治時代の画像資料のいくつかには、上野広小路や淺草界隈にいくつもの3階建て町家が建っていたことが確認できます。 人口密度が高くなると、建物が上に伸びるのは今と同じです。

明治時代の画像資料を参考にしたオリジナルの型紙を使った飲食店舗です。 ここでは天ぷら屋としました。 2〜3階部分も客室という設定で、外からも見えるように内部まで作り込みました。 内部を作り込むと制作時間が1.5〜2倍程度伸びますが、それなりの効果が得られるのではないかと思います。 昔の店舗や家屋は、窓や障子が開けっ放しで外に対するプライバシーなし、というのは当時としてはごく自然な当たり前の事だったようにも思います。
 
また、この建物の型紙は入口部分の軒の意匠を変えることにより旅館風にもなるので、今後も度々登場するかもしれません。 作者自身は割と気に入っている型紙です。

02:キリンビヤホール

02:
これも3階建ての町家建築です。 伝統的な意匠で作られた建物の1階の外観だけを「にわか洋風」に改修したという設定です。 当時まだ日本では広く普及しておらず、限られた人達だけの最先端の嗜好品のひとつであったであろう「ビール」を提供するために、店先を洋風にしています。 昭和初期以降のいわゆる「看板建築」以前の意匠です。 店舗や広告塔の看板は、明治期の横浜の画像資料を元に制作しています。

日本最古のビール会社は、1872年(明治5年)創業の大阪「渋谷ビール」とのことですが、1888年(明治21年)には、横浜で「キリンビール」のブランドが誕生したそうです。 現在では日本を代表する酒造メーカーの一つですが、明治期の東京・横浜周辺の画像資料を見るとすでに「キリンビール」や「キリンビヤホール」の看板を割とよく目にします。(ビアホール ではなく、「ビヤホール」なのがポイント)
明治期のビール会社の看板では、「カブトビール」「アサヒビール」「さくらビール」なども見にすることがあります。

瓦屋根の上に作られた広告塔は、やはり明治期の画像資料に度々登場するのでそれを根拠に制作していますが、遠景からの画像が多く、実際にどのようなディテールだったのかはっきりとわからず、想像半分で制作しています。 建物に対してかなり大きな広告塔もあったようで、構造的に安全だったのかは定かではありません。 行政の規制も緩かったのでしょうか。 「景観に与える影響」などという議論もその当時はなかったと想像しますが、当時の都市景観を特徴付ける魅力的な要素と思います。
このほか、「仁丹」や「花王石鹸」などの広告塔は、明治期の画像資料に度々登場しています。 いずれも現在も続く老舗メーカーです。

03:旅館

03:
江戸時代の庶民の宿泊施設には、朝夕の食事を提供する「旅籠(はたご)」と、客が自炊する「木賃宿(きちんやど)」があったそうです。 ここでは「旅籠」の流れを汲む老舗の「旅館」という設定です。 2階部分は内部まで作り込み、客室内に散らかった布団をしつらえました。

後述する「汽船発着所」の近くに、旅館が一緒に写っている明治期の画像資料がいくつかあり、それを根拠にここでも旅館を設けました。 現在の感覚でいえば、駅前のビジネスホテルのような感じでしょうか。

04・05-1:「汽船発着所」と外輪蒸気船「通運丸」

04・05-1:
1872年(明治5年)に創業した「内国通運会社」の「汽船発着所」と外輪蒸気船「通運丸」です。
(「内国通運会社」とは、現在の物流大手「日本通運」の元となる、貨物輸送を行う会社)
 
1871年(明治4年)の官製郵便の創業(東京〜大阪 間)や、1872年(明治5年)の日本初の鉄道開業(新橋〜横浜 間)などを背景に、東京・大阪・京都の飛脚問屋仲間を中心に創立された会社だそうです。

同社は、創業から5年後の1877年(明治10年)に蒸気機関動力による外輪船(愛称:川蒸気)を就航させ、東京と栃木県などを結ぶ航路で旅客・貨物の輸送を開始したそうです。 「内国通運会社」の川蒸気船の航路は主に河川(利根川水系)で、外海には出ていません。 川蒸気船による人と物の輸送は、1877年(明治10年)から、1930年前後の昭和初期(昭和元年=1926年)までの間、60年近くに渡り行われたという事です。

「汽船発着所」は、東京には4箇所(実質3箇所)あり、航路が違っていたとの事です。
 

  • 深川・扇橋(現在の江東区猿江1丁目)
    • 蒸気船輸送の開業当初の出発地。のちに下記の3箇所に機能が分散し、「扇橋 汽船発着所」は後に廃止となったようです。
  • 日本橋 蠣殻町(かきがらちょう・現在の中央区蠣殻町2丁目)
    • 主に、下利根川・霞ヶ浦・北浦 方面の原発所
    • 両国(現在の中央区東日本橋2丁目)
      • 主に、上利根川 方面の原発所
    • 高橋(現在の江東区高橋1丁目)
      • 下利根川・上利根川 方面の汽船の寄航場
      • 東京〜行徳 航路の原発所

      このレイアウトでは、「蠣殻町 汽船発着所」の画像資料を参考に、架空の発着所として建物と看板を作成しました。

      外輪蒸気船「通運丸」は蒸気機関を動力として、船体の両脇にある外輪を回して進む古典的な動力船です。 「通運丸」は1隻ではなく、1877年(明治10年)の航路開業当初、第1号・第2号の2船体で輸送を始めてすぐに好評を博し数を増やしていったそうです。 同じ船名(号数)を含めると、内国通運時代(1877〜1926年)に79船体、昭和初期(1930年前後)の航路廃止までの全航行時期を通じて計87船体が造られたとの事です。
      (1926年(昭和元年)に「内国通運会社」を含む複数の会社が合併し「国際通運株式会社」となっている)

      それらの「通運丸」は全て同じ大きさであったわけではなく、かなりバラエティーに富んでいたそうですが、船体に関する図面資料は現在ごくわずかしか確認できず、詳細が全く不明だそうです。

      このレイアウトでは、東京都 江東区中川船番所資料館、物流博物館(品川)でかつて入手できた「通運丸・銚子丸のペーパークラフト」(有料)と「図説・川の上の近代」(有料冊子)を元に制作しました。

      外輪蒸気船「通運丸」は、拙作の「東京下町の路面電車モジュール「其の一」(2009年) で一度ご登場いただき、今回約16年ぶり2回目の登場です。 今回はCADで作成したデータの試作を何度か繰り返してブラッシュアップし、長さ 約30m、幅 約6.5m の船体としました。 これと同じ大きさの船体がかつて実在したのかわかりませんが、数多かった通運丸の中でも大きい方ではないかと想像します。

       ※出典:「図説・川の上の近代 通運丸と関東の川蒸気船交通史
            
      平成19年(2007年)刊行(川蒸気合同展実行委員会 編)」

      05-2:猪牙舟 乗り場

      5-2:
      猪牙舟(ちょきぶね)乗り場です。 猪牙舟は人を乗せて高速で移動する小型の和船で、現在のタクシーのような存在です。 舳先(へさき)が尖ってイノシシの牙のように見えることから「猪牙舟」だそうです。
       
      江戸時代中期(17世紀中頃〜18世紀中頃)に登場し、明治時代中期頃(19世紀末)に消滅したとの記述がネットに見あたりますが、昭和30年代(1950〜60年頃)の高度成長期の画像資料で猪牙舟らしきものが写っているのを見たことがあります。 詳しいことがわからないので今後もう少し調べてみます。

      06・07:飲食店・居酒屋

      06・07:
      今回新しく起こした型紙で制作しました。 人と物が集まる「汽船発着所」の近くという事で飲食店・居酒屋などが集まっている設定です。 明治時代には、上野広小路や淺草界隈などの繁華街に、いくつもの3階建て町家が誕生していたようで、ここでも一部を3階建てとしました。
       
      ここではレールの曲線部分に合わせて建物の外壁面を決めているので、かつてこのような形の建物が実在したかどうか定かではありませんが、飲食店が密集している雰囲気は出せたかなと思います。 このような飲食店が集まる場所に看板類が多いのは現在も同じです。



      08:小料理屋「みよ」

      08:
      小粋な平屋建ての小料理屋「みよ」です。 当時女性としては珍しく料亭で修行したやり手の女将が一人で切り盛りするお店で、美味い料理とお酒を提供しており、今日も常連客で賑わっています。
       
      メニューにはない絶品名物「たまご豆腐」は、常連客以外には出さない裏メニューです。 この女将は一人で都会に出てきて、女手一つで故郷の年老いた両親と二人の娘の生活を支えつつ、小さいながらも自分の店を持つまでになりました。
       

      09:定食屋

      09:
      屋根と外壁が共に木製の質素な佇まいの定食屋です。(外壁は、押縁下見板張り) 裏にある汽船発着所や近辺の肉体労働者向けに安くて美味い定食を出しています。 2階は店主夫婦と従業員の居住空間です。
       
      儲かっているので、建物横に立ち食い専用の店舗スペースを増築しています。 立ち食いそば・うどんというのは、江戸時代の屋台が発祥だそうです。 現在もその文化は続いています。 隣の小料理屋「みよ」とは営業時間や客層が違うので、商売上競合はしていないはずです。
       

      10:氷屋

      10:
      「氷」の販売店です。 江戸時代まで「氷」は天然のものだけで、身分の高い限られた人たちのものでしかなく、一般庶民には暑い時期でも全く無縁のものでした。 日本で初めての「氷屋」は、1869年(明治2年)に横浜・馬車道で開業したとの事ですが、当時は北海道などから船で運んだ「天然氷」を取り扱っていたものと思われます。 外国人居留地に住む外国人向けのもので、日本人は見ているだけだったそうです。

      1879年(明治12年)、アメリカ人による製氷会社が横浜に創業し、日本で初めて「機械製氷」による氷の販売が始まったそうです。 その氷販売は一般向けだったとの事ですが、当時まだかなりの「高級品」だったものと思われます。 1887年(明治16年)には日本人による製氷会社「東京製氷」が創業し、それ以降、天然氷と機械氷がビジネス上の激しい競争に突入し、一般向けの「氷」の普及がようやく始まったようです。
       

      11:食料品販売店

      11:
      食料品販売店です。 とはいえ八百屋や魚屋などの庶民向け店舗ではなく、「バター」「缶詰め」「キャラメル」など、明治期に西洋から入ってきた当時の最先端技術によって製造された新しく高級な食品類や、高級な輸入食料品を取り扱っている店という設定です。

      1871年(明治4年)に長崎にて、フランス人の指導のもとで日本人が初めて「缶詰め」(イワシの油漬け)を作り、1877年(明治10年)には、北海道で日本初の缶詰め工場が誕生、サケの缶詰めを製造したそうです。

      日本でバターが初めて作られたのは、1872年(明治5年)に東京・麻布の「北海道開拓使 第3官園 実習農場」との事。 本格的なバター製造は、1885年(明治18年)、東京・麹町の「北辰社」が初めてで、その後1902年(明治35年)に盛岡〜岩手県の「小岩井乳業」が創業してバター製造を開始、1925年(大正14年)には「北海道製酪販売組合」(現在の雪印メグミルク)がバター製造を始めたとの事です。
       
      このレイアウトのタイトル「陸華町(六花町)」の「六花」は、雪の結晶の多くが六角形をしていることから雪や雪の結晶の異称とのことで、語呂合わせで「雪印バター」の広告塔を付けてみました。
       

      12:「くずもち」あるいは「きび団子」販売店

      12:
      「くずもち」あるいは「きび団子」販売店です。
      「くずもち」は関東と関西では少々違うそうですが、関東のくずもちは江戸時代後期に発祥したとのことです。

      • 東京・池上本門寺「浅野屋本舗」(1752年(宝暦2年)創業)
      • 東京・亀戸「船橋屋」(1805年(文化2年)創業)
      • 川崎大師「住吉」(1917年(大正6年)創業)

       など、東京周辺だけでも今も続く老舗がいくつもあります。

      「きび団子」の発祥は、岡山県(吉備国)や北海道など、とのことですが、詳しく知りません。 江戸時代末期頃が発祥だそうです。 「くずもち」も「きび団子」も作者の大好物なのでこれを作りました。 いずれ、みたらし団子屋も作りたいです。 建物に特定のモデルはありません。
       

      13:屋台

      13:
      屋台といってもいろいろな形態があったようで、江戸時代の版画作品で見られるような一人で担いで簡単に移動できる天秤型のものや、昭和の屋台とも言えそうなリアカーに乗った木製のもの、などいくつか思い当たります。
       
      ここではテント設営型ともいえそうな屋台を作りました。 画像資料ではなかなかお目にかかれませんが、版画作品の情景を参考にしています。 版画家・吉田遠志 作の「夜の東京 屋台店」(昭和13年・1938年)という木版画作品です。 寿司(旧字体で「壽司」)、とんかつ、牛めし などいろいろ食べられたようです。

      LED電球をそのまま仕込むと明るすぎるので、3mm砲弾型LED 1個に、三菱レイヨン製「エスカ」(1mm丸)4本を介して、2つのテント内部を照らしています。


      文章:山尾 比呂士|Text:Yamao Hiroshi

      English translation: ChatGPT-5.6 Luna


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